速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

堀丹後守直竒 大坂夏の陣 勝敗の鍵を握った男 第一章 越後村上の誇り

【第一章 越後村上の誇り】 私が小学生の頃だったか、両親に連れられて、新潟から、「特急とき」に乗って、冷凍ミカンを食べながら、あの頃は、4時間半もかけて、東京上野へ遊びに連れて行ってもらったことがある。 上野公園につくと、先ずは不忍池のほとり…

越後、村上茶の起源

祖母が話していた、宇治茶の話である。 大坂城から逃れた、速水守久の三男保久、四男貞久、そして四男の母(守久側室)は、数名の家臣と供に、茶畑が一面に広がる、京都山城国の、とある農家に落ち延び、宇治村に隠生した。徳川の豊臣狩りから身を守るために…

日本画家・速水御舟は、四男家の子孫

大坂夏の陣の三年後、速水守久の四男貞久(=速水理右衛門)は、三男保久(=速水藤右衛門)と供に、越後村上藩堀丹後守直竒に引き取られた。守久と同じく豊臣秀吉近習で、守久の同僚であった堀直竒は、守久の遺児2人と、四男の母(守久側室)を村上城に迎え…

ああ、そうか、あれは出来麿だ

わたしが中学生だった頃、大坂城京橋口三の丸から『秀頼の首』と言われる頭蓋骨が出土したと大きく話題になった。正確に言うとその遺骨は出土ではなく、丁寧に埋葬されていた。その頃まだ『速水家の歴史』を継承して.語ってくれた祖母が生きていた。祖母は草…

家紋は沢瀉

速水守久の家紋は、『沢瀉(おもだか)』である。速水家の祖先『音羽三郎源頼季の家紋』を代々継承したものである。 守久の家紋は、黒田長政が描かせた『大坂夏の陣図屏風の右隻(大阪城天守閣蔵)』で確認できる。守久の軍旗は『白地に沢瀉、二つ上下に黒染…

真田幸村 大坂城へ入城

大坂の陣に向けて紀伊粉河で蟄居中の真田信繁を訪ね、豊臣に参戦するよう説得したのは、その時4万石の藩主(近江・和泉・河内)となっていた速水甲斐守守久である。 山から下りた真田信繁一行を、守久の寺堺福田の「願成寺」へ隠密のうちに囲い迎え、守久の…

大坂堺福田願成寺 大坂夏の陣のあと

速水守久が近江湖北速水郷から1614年に移転建立した大坂堺福田の真言宗『願成寺』は、大坂夏の陣の後、豊臣縁寺の為、徳川の焼打ちに遭い、半焼・廃寺のまま300年近くも明治になるまで放置されていた。 清和源氏の末裔近江願成寺28代目速水守久が移転建立し…

菩提寺は願成寺

速水守久の菩提寺は、『願成寺』である。この『願成寺』は、1020年頃、清和天皇第六番目の王子貞純親王を父に持つ源経基王の末裔源頼季(乙葉三郎入道)が、近江湖北速水郷に開基建立したものである。 1598年秀吉がこの世を去ると、世代交代により豊臣秀頼中…

大奥の春日局は、はとこ

春日局は、速水守久のはとこ(母方の再従兄妹)である。 大坂夏の陣のあの日、守久は、義姪の千姫を徳川陣に届けた後、いとこ(義従弟)である徳川秀忠と、決死の交渉で守久が出した条件があった。 それは、秀頼と国松と淀の助命。これは大坂城に残る豊臣金…

細川家の血をひく印、通字について

守久の遺児(三男と四男)は、大阪夏の陣の後、処刑されず、越後村上城主堀丹後守直竒に引き取られた。守久より7つ年少である堀直竒は、元は豊臣秀吉の近習(近侍)であった。豊臣時代には守久を近習頭とする仲間であった。徳川の御世となり、将軍秀忠、将…

近習頭であり、黄母衣衆であるという意味

守久は、豊臣家の『近習頭(きんじゅがしら)』であり、『黄母衣衆(きほろしゅう)』であった。 『近習頭(きんじゅがしら)』とは、常に主君の身辺警護にあたり、主君の側近くにお仕えする役職である。速水守久はその筆頭。守久は9歳ではやばやと元服した…

太閤検地 守久検地奉行となる

守久の、豊臣秀吉近習としての、お市様お共役は、わずか3年少しで終わりとなった。1583年4月(天正11年癸未)まで、柴田勝家の城『越前国北ノ庄城』で、お市様お供(近習組頭)を勤めていたが、お市様がお亡くなりになり、役を離れた。1582年から豊臣秀吉が…

お市様のお共役

1570年(元亀元年庚午)、近江速水郷で、速水兵右衛門時久と蓮与の長男として『速水勝太(守久幼名)』誕生。妹は美帆。 1573年(天正元年癸酉)浅井家の小谷城落城により、守久父『速水時久』は、羽柴秀吉に仕えることになった。 1579年(天正7年己卯)織田…

守久の最後

守久は全ての責任をとって大坂城落城と共に殉死したのである。守久姪の千を徳川陣営へ送り届けた後、大阪夏の陣前より島津と謀っていた通り、守久が大阪の役の為に声掛けし参戦してくれた客将ら命と共に、主君秀頼を薩摩の船に乗せ脱出させたのである。大阪…

淀はいとこ

淀は、速水守久の義従姉である。織田信長の妻『濃姫』が守久の伯母さんである故、淀の両親浅井長政とお市夫婦は、守久のおじさんおばさん(義伯父母)である。浅井長政家臣であった守久父『時久』は、浅井家家族とは義兄弟。守久が幼少の時は、2つ3つ年上…

徳川秀忠はいとこ

徳川秀忠は、速水守久の義従弟である。千姫を救出した守久は、徳川陣営で秀忠より褒美『馬具一式、金、槍』をつかわされている。大坂城天守閣落城前日、徳川家康は、後藤又兵衛の槍に突かれて絶命していた為、家康不在となっている陣に守久は千を連れて到着…

秀頼は甥っ子

豊臣秀頼は、速水守久の義甥子である。秀吉の命で籠の中の鳥のごとく成長した秀頼には、知性はあれど戦火兵どもと交える器量が無いこと知っている守久は、山里曲輪につくられていた秘密地下廊から内堀を抜け京橋口から秀頼を薩摩藩の船に乗せ逃したのである…

千姫は姪っ子

千姫は、速水守久の義姪子である。故に、豊臣家最適任者として、守久は、千の教育係を務めた。そして、大阪夏の陣の最後には、徳川秀忠の陣へ、守久は、決死の覚悟で千姫を送り届けたのである。大坂夏の陣のさなか元服を済ませたばかりの守久嫡男『盛久(幼…

守久の両親

守久の父は、細川京兆家和泉国下守護深井城城主細川政賢の孫『速水時久』である。細川家の血を引いている。守久の母は、斉藤道三の末娘『蓮与』である。これは、どの学者が何と言おうと、どの歴史通がなんと言おうと、蓮与は斉藤道三の子である。子孫として…

豊臣中老速水甲斐守守久没後400年法要に参加して

4月14日13時30分に伊丹空港で、鹿児島速水宗久末裔の皆さんと合流(400年ぶりの再会)自刃場所大阪城へ。生憎の土砂降りの雨でしたが、寒冷前線通過の一時間の晴間。守久・守治(出来麿)親子の御魂が末裔に与えてくれた素晴らしい環境下でした。…