速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

守久の最後

守久は全ての責任をとって大坂城落城と共に殉死したのである。守久姪の千を徳川陣営へ送り届けた後、大阪夏の陣前より島津と謀っていた通り、守久が大阪の役の為に声掛けし参戦してくれた客将ら命と共に、主君秀頼を薩摩の船に乗せ脱出させたのである。大阪城の抜け道を知る者は、秀吉・秀頼2代に渡るSP(七手組頭筆頭・中老)をしていた守久を置いて他は居ないであろう。大野治長は淀の乳兄妹として豊臣の中心にいたようであるが、夏の陣に突入する緊迫した時期に、城内で不審者(実弟)に左わき腹から切り付けられ、ほとんど瀕死の様相だったという。戦議も家臣に戸板で運ばれ何とか席に着いたというから、当にはならなかった。守久は千姫を家康不在の徳川陣屋に送り届け、秀忠と密約の後、徳川陣営より大坂城に戻ると、守久の指示で、金蔵を開け、徳川方から真田幸村の叔父『真田信尹』が家臣に命じ豊臣金塊を運び出し、それを秀忠との約束通り、徳川家に譲渡したのである。戦乱の世を終わらせるために。民を苦しめないために。豊臣家の最後を見届けた守久は、千姫救出のおとり隊大将として戦死した嫡男盛久(出来麿)の遺体(首)と、戦場で散った父時久の遺体を、できる限りの供養でねんごろに埋葬した。墓が徳川の兵に暴かれないように、見つからないように、平安になった御代にいつの日か見つけだしてもらえるよう、子孫には「これは速水盛久と時久の遺骨である」と、後世名乗り出てもらえるよう、墓には時代と時間と身分を示す目印を残した。そして、守久は、「戦国時代の城明渡しの作法」に従い、徳川方重臣立会の下、豊臣の責任を一身に背負い自刃したのである。七手組頭として最後まで秀頼の命を守り切り、客将だった真田信繁に警護を頼み薩摩の船で逃れさせた。豊臣の主犯格として守久の首は徳川陣屋で首実検され、大坂夏の陣は終焉した。速水守久自刃と介錯に立ち会った人物は徳川方の『真田信尹』である。守久との約束で、真田信尹は守久介錯後、守久終焉の曲輪に火を放ち、遺体が誰のものかわからないよう協力してくれた。秀頼が徳川の御代に追われることが無いよう、世間的に死んだことにしてくれた、甥の真田信繁も薩摩に逃れたことを明らかにされないように。曲輪で首なしの丸こげの遺体が秀頼の具足と短刀とともに発見されたと徳川の歴史には書かれている。しかし、これは豊臣の最期を見届けた、忠臣・速水守久の遺体であろう。また、徳川方の真田信尹この人は、豊臣の客将であった真田信繁の叔父で、大阪東堺にある『玉圓寺』を開基した初代住職『馨蓮社光譽臺現祐德上人(俗名眞田八郎)』と思われる。大坂夏の陣が終わると、守久に戒名を授け、懇ろに葬ってくれたのである。速水守久の戒名は「純誠院殿釋忠真大居士」。戒名に、生涯忠臣であったという、守久の生前の生きざまが偲ばれる。浄土宗、もしくは浄土真宗の戒名である。今年、速水守久没後400年法要は、玉圓寺にて真田八郎霊位と共に、お寺さんと速水守久子孫及び関係者らによって執り行った。