速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

近習頭であり、黄母衣衆であるという意味

守久は、豊臣家の『近習頭(きんじゅがしら)』であり、『黄母衣衆(きほろしゅう)』であった。

『近習頭(きんじゅがしら)』とは、常に主君の身辺警護にあたり、主君の側近くにお仕えする役職である。速水守久はその筆頭。守久は9歳ではやばやと元服した時から、秀吉の『近習』であり、お市の近習をしていたことは、ブログ『お市様のお供役』に書いた通りである。守久解釈として、主君の身の回りの世話や刀持ちをする小姓ではなかったということを明記したい。

又、秀吉から『黄母衣(きほろ)』に人選されたということは、相手が大名であろうとも交渉を行えるだけの家格と能力、そして不覚の事態や妨害に遭ったときの武才と体力が備わっており、且、家臣や大名らに面識があり、よく知られていた人であるということを表しているのである。