速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

豊臣中老速水甲斐守守久没後400年法要に参加して

4月14日13時30分に伊丹空港で、鹿児島速水宗久末裔の皆さんと合流(400年ぶりの再会)自刃場所大阪城へ。生憎の土砂降りの雨でしたが、寒冷前線通過の一時間の晴間。守久・守治(出来麿)親子の御魂が末裔に与えてくれた素晴らしい環境下でした。その時間だけ晴れてくれました。薩摩では、昔から喜びの雨と云うそうです。大阪城内ボランティアガイドの皆さんから迎えて頂き、大変なご協力を頂きました。速水守久は焼け落ちる大坂城より秀頼・淀君を城内から 内堀ヘ抜けた地下廊(現在の浄水場の水門)跡から薩摩藩の船へ。落城時、金蔵に残った金塊(百億と言われている)を徳川に譲渡を済ませ空になった金蔵内で自刃した場所に向かい(金藏があった場所は現在出入りが禁じられている場所だそうです)お線香・花・お酒を上げ、鹿児島・新潟・大阪・神戸速水末裔でお参りを済ませ、戦国武将 将軍速水守久と暫しの再会を楽しみました。

数年前、大阪都構想の調査の為、大坂城内で一部の発掘が行われ あちら、こちらに鍵の掛かったマンホールが伏せてありました。説明によると、この下に八メートルの石垣の積まれた豊臣家の邸跡がみつかったそうです。現在の天守閣の三十数メートル 下にも豊臣家の屋敷跡が残されてあるそうです。又、自刃場所のすぐ脇には、守久の指示の元、いざという時に逃がす為に作られた地下廊の入り口も見つかった様です。此処にも鍵付きのマンホールがフエンスに困まれありました。自刃場所の左側には現在、浄水路として使われている地下廊も見えました。ここより内堀を抜け、薩摩藩の船に秀頼は助けられた様です。淀は関東とも京ともに、逃げ延びたと云われております。淀と秀頼の墓といわれる石が残されておりますが、これは身代わりになった人の物です。その前後に守久は嫡男盛久(出来麿)をおとり出陣させ、手薄になった処で千姫を徳川陣屋の秀忠の元に送り届けております。(この事実も代々三男家に言い伝えられて居ります。)現在、戦国大坂の陣のドラマでは皆さん壮絶な最後を迎えた様にドラマ化されておりますが、亡くなった人は誰もおりません。皆、守久の指示の元 逃げ延びております。豊臣秀吉に忠誠を誓っていた大名達は皆徳川家に寝返り、この戦に於いて誰かが責任を取らなくてはならなかった為、浅井家四代(浅井長政~茶々・淀~秀頼・千姫~国松)に忠実に仕えた守久が責任をとったのでしょう。まだ四十歳半ばにもならなかったのに。 千姫を助けて頂いた礼として、秀忠より馬具一式、金子、槍を下賜されており、この事実に就いては秋田藩佐竹家の古文書資料に記されており確認出来ます。槍は三男家に残されております。徳川家康天守閣落城前日南宗寺裏門で、後藤又兵衛の槍に突かれて絶命。家臣が密かに寺に運び、堺の豪商が葬り、幕府はその死を伏せた後、数年後日光東照宮に葬ったという。南宗寺には家康の墓も残っています。その後、秀忠・家光は揃って度々南宗寺に出向いていたと、代々語り継がれています。 大阪城落城後も金蔵には百億の金塊が残ったが、その金をすべて、徳川家(秀忠)に渡し、豊臣家の最後を見届けた後自刃。守久が 最後に残した言葉が末裔家に語りつがれております。

『いつの日か 先祖を知りたいと思う日が来たら、遺言を残していくので探してほしい。柳の下で最後を迎える・・・・・・』と。 それから四百年。 柳の木を探しましたが大阪城には昔から柳はないそうです。別の末裔家に残された資料から『柳』とは将軍を意味する事もあったと知りました。金蔵を任されていた守久は最後 将軍として只独り責任を取り、徳川家に次の時代の平和を託したのでしょう。守久自刃の後、叔父常久(時久弟で徳川熊本藩細川家家臣)は、嫡男速水忠兵衛夫妻を人質として江戸詰めにしています。 又、守久祖父斎藤道三が手掛け、母連与が引継ぎ 守久が油奉行として引き継いだ権利は、徳川家に提供されています。守久が近江より移築した菩提寺願成寺で母連与は守久と嫡男守治(幼名出来麿)の菩提を弔ったと遺された資料から知りました。その後、一ツ橋家は明治まで油の権利を手放すことはなかったそうです。江戸詰めになった速水忠兵衛(守久の従弟)の妻(惠院)と娘(千ゑ)は春日局の側近リーダーとして大奥に上がり破格の待遇で迎えられたと 熊本城に資料が残されています。確認できます。守久の忠誠心から残された幼子達はお構いなし。次男宗久(幼名久丸)は父なき後、薩摩藩島津家へ。(三男家に記録が残されています)おそらく母と数名の家臣と共に、秀頼と同じく薩摩藩島津家の船の旅だったと思います。三男保久(勝丸)・四男貞久(誕生直後だった様で幼名は付いていない)それから三年後、越後最北端の村上藩堀家に客人家臣(主が家臣をつれて世話に)として迎えられた記録が残されている。四男貞久の母(側妻だったと思われる)と思われる乳母と三人の家臣で幼子(三男・四男)を連れて陸路越後へ、大八車での大変な旅だったと伝えられています。

守久二男宗久がその母と薩摩藩に引き取られ、島津家へ身を寄せておりますので、守久妻(子達の母)は島津家に関係する女性では無かったかと考えられますが、今の処 守久妻の名前だけが不明です。守久三男四男は越後村上藩へ迎えられ、後、村上城内で元服。また斎藤道三の本家(西村家)が孫守久の為に近江から移築したとされる守久邸(和泉市池田)も2014年末まで現存していたそうですが、堺市の博物館関係者に歴史的価値を認めてもらえず解体されてしまいました。 

 

  それから400年、2015年4月15日、大阪堺の玉圓寺様で親族末裔の再会でした。   

15日(水)十時より堺市堺区甲斐町玉円寺様にて 速水守久の四〇〇年法要を勤めて頂きました。法要の席、鹿児島速水宗久末裔の方より、平成二十七年四月六日南日本新聞一面南風録記事に秀頼公の記事が載っているコピーを頂きました。鹿児島では伝説と見ているようですが、事実と考えられます。何故なら新潟速水家古文書には 守久亡き後、薩摩藩に引き取られた次男宗久が薩摩島津家に世話になった事が記されており、守久が秀頼君を、もしもの時の為に用意してある地下廊から数名の家臣を付け薩摩へ逃がしたと母が生前話しておりました。千姫も守久の指示の元、父秀忠のもとへ 返しています。その時 秀忠より下賜された槍が三男家に残されております。(秋田藩佐竹家に残された古文書資料で確認出来ます。)400年の時を超えて親族の素晴しい再会でした。最後に写真撮影にてお開きとしました。ご参列頂きました末裔の皆様方有難うございました。山本住職様始め御家族様有難うございました。大阪城内ボランティアガイドの皆様・ 協会の皆様方有難うございました。御健勝をお祈り申し上げます。