速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

大奥の春日局は、はとこ

春日局は、速水守久のはとこ(母方の再従兄妹)である。

 

大坂夏の陣のあの日、守久は、義姪の千姫を徳川陣に届けた後、いとこ(義従弟)である徳川秀忠と、決死の交渉で守久が出した条件があった。

それは、秀頼と国松と淀の助命。これは大坂城に残る豊臣金塊と天下の譲渡を引きかえにしている。ブログ『守久の最後』で書いておいた。

それから、斉藤道三が所有し守久母蓮与が引き継いでいた和泉国速水家の菜種油・油権利を徳川へ差し出している。明治まで徳川一ツ橋家の管理下におかれることになったエネルギー利権である。そして、次の時代の平和を願い、すべての豊臣の責任をとり、守久は柳の木の下で自刃した。豊臣家の金蔵の前に植えてあったのであろう、守久の遺言『柳の木の下で、最後を迎える(省略)・・・』と伝承さている。

 

その後、熊本藩細川家家臣であった守久いこと(父方の従弟)速水忠兵衛が江戸詰となり、助命された守久母『蓮与』によって和泉国で継続され、その技術と手法は一ツ橋家へ引き継がれた。

 

その上、守久いとこ(従弟)速水忠兵衛の妻『惠院(守久義従妹)』と、その娘『千ゑ(守久父方はとこ』は、春日局の側近頭となり、破格の待遇をうけて、江戸大奥で仕えたのである。これが大阪夏の陣終焉の裏舞台である。