速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

日本画家・速水御舟は、四男家の子孫

大坂夏の陣の三年後、速水守久の四男貞久(=速水理右衛門)は、三男保久(=速水藤右衛門)と供に、越後村上藩堀丹後守直竒に引き取られた。守久と同じく豊臣秀吉近習で、守久の同僚であった堀直竒は、守久の遺児2人と、四男の母(守久側室)を村上城に迎え、育て、元服させてくれた。堀丹後守直竒が亡くなる直前の病床で、「私が亡き後のことだが、豊臣を背負い、肩身の狭い思いをして、徳川の世を生きるのは辛かろう。領地を授けるから、帰農して、兄弟力を合わせて、新しい世を生きたらどうか」と勧められ、直竒の遺言通り帰農した。

 

明治17年、四男家を継承していた速水仙吉郎には世継が居らなかったため、当時、三男家の次男(速水柳平)が養子縁組をして、四男家の家督を相続した。その後、三男家の嫡男正久(柳平の兄)が引き起こした事情により、明治21年、速水柳平は、四男家をたたみ、兄の借財を返済した。柳平は、一度は三男家に戸籍を戻し、実家に戻ったのだが、このまま越後速水家を消滅させてはならないと、この年誕生したばかりの長女淑子を、三男家の当主に据え、妻の山川トキに離縁を言い渡し、自らは東京に働き口を求めて、速水家を守ってくれたのである。

明治24年に上京した速水柳平は、明治30年に易占の高島嘉右衛門に見初められ、高島嘉右衛門の側近として実業界で活躍した後、愛知セメントを辞し、京橋(八重洲駅前)で国産セメント販売業を会合した(大正4年)のだが、この頃、四男家末裔の蒔田栄一(=速水御舟)と家族交流しており、四男家の事情を、成人し理解ができるようになっていた蒔田栄一に話して聞かせた。速水仙吉郎の死蹟により自分が四男家家督を相続したこと、事情により四男家をたたんだこと、それに伴い四男家が絶えてしまったことを、伝え、詫びた。その意を汲んで、蒔田栄一は、絶えゆく母方の「速水姓」をことさら惜しみ、号を『速水御舟』と改めたのである。

四男家が、事情があり消滅したことを、上京した速水柳平が、四男家分家筋の速水キクに伝えたのであろう、明治42年、蒔田栄一は、15歳で祖母速水キクの養子となり、速水姓を継いだのである。

 

速水理右衛門(四男家)の5代目の分家に、速水利兵というものがあり、その孫が速水キク、その子が速水イト、さらにその子が蒔田栄一(=速水御舟)である。