速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

淀はいとこ

淀は、速水守久の義従姉である。織田信長の妻『濃姫』が守久の伯母さんである故、淀の両親浅井長政お市夫婦は、守久のおじさんおばさん(義伯父母)である。浅井長政家臣であった守久父『時久』は、浅井家家族とは義兄弟。守久が幼少の時は、2つ3つ年上と言い伝えられている茶々姫とは姉弟のように育った。故に、守久は淀身内のような立場で秀吉の覚えが良く、聚楽第行幸(天正16年1588年)の際には秀吉の輿に随身し、秀吉の警護隊長(近習)務めたのである。守久18才であった。『越前検地奉行』の記録もある。五大老やら諸奉行との調整役に徹し、秀頼の御世には中老となり、大阪夏の陣では、千の救助の際に、いとこ秀忠との交渉に臨んだ。豊臣家最後を見届けた後、空にした金蔵ですべての責任ととって自刃したのである。戒名がそれを物語っている。守久は、秀頼と淀を介錯など決してしていないし、秀頼と淀は、大坂夏の陣の後も、『秀忠と守久の密約交渉』によって密やかに助命された。本物の国松も、秀忠と守久の密約交渉により島津家へのがれているのだから処刑などされていない。これが守久三男の家系で大正生まれの末裔まで、インターネットのない時代に内々に伝承されてきたことである。