速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

太閤検地 守久検地奉行となる

守久の、豊臣秀吉近習としての、お市様お共役は、わずか3年少しで終わりとなった。1583年4月(天正11年癸未)まで、柴田勝家の城『越前国北ノ庄城』で、お市様お供(近習組頭)を勤めていたが、お市様がお亡くなりになり、役を離れた。1582年から豊臣秀吉が始めていた検地に携わる命が守久にも下り、1584年(天正12年甲申)より検地作業に就くことになった。守久14才のことである。この年守久は黄母衣衆に抜擢され小牧長久手の戦いに初陣。

翌1585年(天正13年・守久15才)四国征伐にも黄母衣衆として従軍。

1587年(天正15年・守久17才)は九州征伐にも黄母衣衆として従軍。

1588年(天正16年)足利義昭征夷大将軍職を辞任し、室町幕府終焉する。

この年(天正16年4月14日・守久18才)秀吉は、黄金の城『聚楽第』へ後陽成天皇行幸を迎え、守久はこの日、関白秀吉の随身として供奉している。聚楽第行幸記に記されている。

1589年(天正17年己丑)から、『山城国御検地帳 奉行速水甲斐守』の記述が見られる。守久19歳の時には検地奉行となっていた。淀が秀吉の側室となったばかりの頃である。

1590年(天正18年・守久20才)小田原征伐と奥羽征伐に出陣。

1592年(天正20年・守久22才)朝鮮出兵文禄の役)では名古屋城本丸広間番衆六番組頭として城守する。平時は、秀吉の身辺警護にあたっていたようである。

1594年(文禄三年・守久24才)西宮史第二巻によると速水甲斐守により名来・下山口・上山口・中野の各村の検地が行われたとある。1598年(慶長3年戊戌・守久28才)の越前検地まで、おおよそ14年にわたり、検地奉行を勤めたことが記録(福井県史)でわかる。