速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

家紋は沢瀉

速水守久の家紋は、『沢瀉(おもだか)』である。速水家の祖先『音羽三郎源頼季の家紋』を代々継承したものである。

 

守久の家紋は、黒田長政が描かせた『大坂夏の陣図屏風の右隻(大阪城天守閣蔵)』で確認できる。守久の軍旗は『白地に沢瀉、二つ上下に黒染めしたもの』である。速水守久軍の鎧胴は黒漆に金の『丸に二つ引き』(=清和源氏細川家の家紋を継承=守久曽祖父は細川實政)が屏風絵図より確認できる。大坂夏の陣最終決戦天王寺の戦いでは赤備え真田信繁軍の殿を務めていた速水守久は、母衣をまとい栗毛の馬にまたがり、真田軍の最後尾に描かれている。

 

速水守久家家紋は、『沢瀉』 

■薩摩にのがれた守久次男の家紋は、『木瓜紋

大坂夏の陣の後、守久次男「速水五右衛門宗久」は、守久正室とともに鹿児島の島津家へ引き取られた。速水守久正室は、六角義頼(=六角定頼次男)末娘で、朝倉信景の養女になったのち速水守久の正室となっている。鹿児島に逃れた守久次男の末裔は、守久正室の朝倉家家紋『木瓜紋』を継承している。

 

■越後にのがれた守久三男四男の家紋は、『左卍』

大坂夏の陣の後、守久三男「速水藤右衛門保久」と四男「速水理右衛門貞久」は、守久側室とともに越後の村上藩堀丹後守直竒に引き取られた。速水守久側室は、讃岐守細川元勝娘である。越後に逃れた守久三男四男の末裔は、守久側室であり、四男の母である讃岐細川家家紋「左卍」を継承している。