速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

越後、村上茶の起源

祖母が話していた、宇治茶の話である。

大坂城から逃れた、速水守久の三男保久、四男貞久、そして四男の母(守久側室)は、数名の家臣と供に、茶畑が一面に広がる、京都山城国の、とある農家に落ち延び、宇治村に隠生した。徳川の豊臣狩りから身を守るために、守久の旧知の庄屋にかくまわれたのである。普段、茶畑は、人の気配をかき消してしまえるほど、ひっそりとした場所なのである。

京都山城国は、太閤秀吉が死去する間際まで、速水守久が、豊臣検地奉行として出入りしていた土地、宇治茶の名産地である。守久の書状をもって、母子は城落ちしたのであろう。

さて、大坂の役三年後、速水守久の遺族母子を受け入れた、堀丹後守直竒なのだが、殆ど原野であった長岡の地を、長岡と名付け、1616年、長岡藩を立藩、築城と城下町の整備を行ったのである。新潟港の整備も行い、交易時の諸税を免除し、人口増加に伴う、新潟古町の整備をし、新潟町の基礎を作ってくれた。新潟の歴史で語り継がれるべき、とても重要な人物である。

1618年、長岡城も完成しないというのに、堀直竒は、将軍徳川秀忠より、向こう三年間、佐渡金山の採掘権を譲渡され、村上藩主に転封させられる。まさにこの年に、堀直竒は、京都へ使者を出し、隠生していた速水守久の遺児二人とその母を探し出して、村上城へ迎え入れているのである。

速水守久の遺児二人とその母は、速水家の数名の家臣を引き連れて、堀家家臣に守られて、京都から越後村上まで、大八車での長旅であったそうだ。古田織部の弟子でもあった守久大名家は、いつも大坂城の自邸でお茶を点てていたし、城落ちした後もお茶が身近にあり、生活の一部であった。越後へ下れば、お薄(お抹茶)がない生活が待っている、せめて『茶の種』を、定住の地で植えたいと、世話になった庄屋から譲り受け、このとき、宇治から隠密に持ち出すことができたのである。

1618年といえば、大坂夏の陣が終わったばかりで、まだ徳川政権が固まっていない時である。宇治茶、紅花、焼き物(陶器)及び、秘伝薬などの主要産物は、藩外持ち出し禁止令で縛れていた。『宇治茶の種及び苗木』は他藩へ出回ることはなかった品なのである。

村上城内で、守久母子によって密かに栽培された『宇治茶』は、幸運にも発芽し、冬越えができ、成長した。その後、堀直竒の村上地域産業促進事業の一つとして、城下の庄屋へ茶の苗が分け与えられ、『日本最北の宇治茶』として、『村上茶』が誕生したのである。