速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

堀丹後守直竒 大坂夏の陣 勝敗の鍵を握った男 第一章 越後村上の誇り

【第一章 越後村上の誇り】

私が小学生の頃だったか、両親に連れられて、新潟から、「特急とき」に乗って、冷凍ミカンを食べながら、あの頃は、4時間半もかけて、東京上野へ遊びに連れて行ってもらったことがある。

上野公園につくと、先ずは不忍池のほとりを歩き、村上出身の父は、ここはお城山の殿様(村上藩主)の上屋敷だった場所で、江戸時代のはじまりに、越後村上藩主(城主)の堀丹後守直竒が、敷地内まで入り込んでいた、『東京湾』の入り江を塞いで『不忍池』を造成したことを話してくれた。

不忍池から、上野精養軒へ向かう途中に、それはそれは大きな『大仏の顔』のオブジェが、ひっそりと祀られているのだが、これもまた、村上藩主堀丹後守直竒が、江戸時代のはじまりに、大坂の陣で戦没した、敵味方余多の御霊を供養するため、この上野の山に、鎌倉の大仏に負けないほど、大きな大きな座禅阿弥陀仏を建立したのだとも話していた。

私は、『不忍池』も『上野の大仏』も、越後の殿様が作ったのだったら、誇らしいなあと、遠い上野が、急に身近に思えたものだった。以後、上野の歴史を知らない人に出会うと、『越後村上の誇り』を私は話して伝えている。

 

越後村上には、江戸時代初め、新潟の北、日本海縁で山だらけの未開な土地に、初代の『村上藩』というものが、堀直竒が藩を興してから、約24年ほど存在していた。遠く採地を見渡せる、小高い山の上に、堀直竒は、天守もある立派なお城を築城し、村上の町の礎を築いた。城跡は、今は『お城山』と呼ばれ、小学生でも簡単に登山できる遠足場所として、下越県民に親しまれている。私も小学校の遠足で、お城山に登り、天守があったとされる石垣の上で、母の手作り弁当を食べた、懐かしい記憶がある。

 

大坂夏の陣の後、戦後の恩賞として、僅か10万石ばかりの石高をもらった、外様大名の堀直竒だけが、そのあとすぐに、どういう訳なのか、佐渡金山の採掘権を、将軍秀忠より三年間もらった。今で謂えば、日本銀行造幣局の造幣権を三年間もらったのに匹敵する。大坂夏の陣で、将軍家から最も多くの恩賞をもらった大名が、堀直竒なのである。『大坂夏の陣 勝敗を決した秘密』が、そこに隠されたのである。400年たった今もその秘密は守られていて、徳川の歴史が作られた。

 

堀直竒は、大坂夏の陣の後、将軍家からもらった、向こう三年間使用可能とする、佐渡金山から湧き出てくる『金』で、新潟の北の原野に、天守閣のある村上城を作った。江戸の上野に不忍池を造営した。時の将軍も、他の大藩の大名たちも作らなかった巨大仏を、大坂の役の戦没者供養の為に、上野の山に建立した。越後の外様大名が、江戸に上屋敷(上野)・下屋敷(駒込)を有し、徳川の老中にまでのし上がった。そして、直竒が死去すると、次男跡継ぎがいたにもかかわらず、願い叶わず、堀家お家断絶、村上藩は廃藩となり、初代村上藩は、たった24年間だけの『幻の藩』となって一度歴史から消された。これをもって、『大坂夏の陣 勝敗を決した秘密』が生涯隠ぺいされたのである。  第2章につづく・・・