速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

細川家の血をひく印、通字について

守久の遺児(三男と四男)は、大阪夏の陣の後、処刑されず、越後村上城主堀丹後守直竒に引き取られた。守久より7つ年少である堀直竒は、元は豊臣秀吉の近習(近侍)であった。豊臣時代には守久を近習頭とする仲間であった。徳川の御世となり、将軍秀忠、将軍家光の相談役として晩年を送った堀直竒。守久の遺児を村上城元服させてくれた。守久三男の家系は元服すると代々『〇久』と名乗っていた。例えば三男家は、守久から一字を受けて『保久-則久-安久-茂久-直久-満久-宣久-将久-正久-盛久・・・』と続いている。なのになぜか過去帳には代々『〇之』と記録されている。速水家代々通字で記された『之』は、細川家の通字であり、過去帳に『之』と記されているのは、ご先祖さまが細川家の血をひく印であると祖母は語っていた。