速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

秀頼は甥っ子

豊臣秀頼は、速水守久の義甥子である。秀吉の命で籠の中の鳥のごとく成長した秀頼には、知性はあれど戦火兵どもと交える器量が無いこと知っている守久は、山里曲輪につくられていた秘密地下廊から内堀を抜け京橋口から秀頼を薩摩藩の船に乗せ逃したのである。秀頼の都落ちは実際にあったことである。守久の嫡男『盛久』は千姫救出おとり隊で出陣し戦死したが、守久二男『宗久(幼名久丸)』は守久妻(名前不詳だが妻の実家家紋は木瓜紋)とともに船で薩摩藩島津家へ身を寄せたのである。現在は、秘密地下廊及び山里曲輪や金蔵、豊臣天守閣は埋め立てられ、貯水池とされ、一般観光客が出入りできない様にフェンスで囲まれている。徳川の天守閣は、秀吉おね夫妻が寝起きしていた西の丸を埋め立てて、その上に、豊臣の霊魂を封じるために築城されたそうだ。近年豊臣時代の秘密地下廊入口等も水道工事等で偶然掘り起こされたそうだ。鍵付マンホールで塞がれてここも緑のフェンスで囲まれて立ち入り禁止になっている。守久三男家に相伝されてきた伝承も、400年の時を経て、斉藤道三子孫ら、守久二男子孫ら、守久三男子孫らと一堂に再会し、それぞれの伝承と家系の記録を繋ぎ合わせることができ、ようやく、点だった伝承話が、線でつながる伝承話になった。