速水守久 子孫に伝わる物語

この記録は学術発表ではありません。大正6年生まれのお祖母さんが、思い出してはとつとつと語ってくれた家伝、400年前、別れ別れになった子孫たちが再会し、ようやくつながってきた歴史、あの日、大坂夏の陣の物語です。

堀丹後守直竒 大坂夏の陣 勝敗の鍵を握った男 第一章 越後村上の誇り

【第一章 越後村上の誇り】

私が小学生の頃だったか、両親に連れられて、新潟から、「特急とき」に乗って、冷凍ミカンを食べながら、あの頃は、4時間半もかけて、東京上野へ遊びに連れて行ってもらったことがある。

上野公園につくと、先ずは不忍池のほとりを歩き、村上出身の父は、ここはお城山の殿様(村上藩主)の上屋敷だった場所で、江戸時代のはじまりに、越後村上藩主(城主)の堀丹後守直竒が、敷地内まで入り込んでいた、『東京湾』の入り江を塞いで『不忍池』を造成したことを話してくれた。

不忍池から、上野精養軒へ向かう途中に、それはそれは大きな『大仏の顔』のオブジェが、ひっそりと祀られているのだが、これもまた、村上藩主堀丹後守直竒が、江戸時代のはじまりに、大坂の陣で戦没した、敵味方余多の御霊を供養するため、この上野の山に、鎌倉の大仏に負けないほど、大きな大きな座禅阿弥陀仏を建立したのだとも話していた。

私は、『不忍池』も『上野の大仏』も、越後の殿様が作ったのだったら、誇らしいなあと、遠い上野が、急に身近に思えたものだった。以後、上野の歴史を知らない人に出会うと、『越後村上の誇り』を私は話して伝えている。

 

越後村上には、江戸時代初め、新潟の北、日本海縁で山だらけの未開な土地に、初代の『村上藩』というものが、堀直竒が藩を興してから、約24年ほど存在していた。遠く採地を見渡せる、小高い山の上に、堀直竒は、天守もある立派なお城を築城し、村上の町の礎を築いた。城跡は、今は『お城山』と呼ばれ、小学生でも簡単に登山できる遠足場所として、下越県民に親しまれている。私も小学校の遠足で、お城山に登り、天守があったとされる石垣の上で、母の手作り弁当を食べた、懐かしい記憶がある。

 

大坂夏の陣の後、戦後の恩賞として、僅か10万石ばかりの石高をもらった、外様大名の堀直竒だけが、そのあとすぐに、どういう訳なのか、佐渡金山の採掘権を、将軍秀忠より三年間もらった。今で謂えば、日本銀行造幣局の造幣権を三年間もらったのに匹敵する。大坂夏の陣で、将軍家から最も多くの恩賞をもらった大名が、堀直竒なのである。『大坂夏の陣 勝敗を決した秘密』が、そこに隠されたのである。400年たった今もその秘密は守られていて、徳川の歴史が作られた。

 

堀直竒は、大坂夏の陣の後、将軍家からもらった、向こう三年間使用可能とする、佐渡金山から湧き出てくる『金』で、新潟の北の原野に、天守閣のある村上城を作った。江戸の上野に不忍池を造営した。時の将軍も、他の大藩の大名たちも作らなかった巨大仏を、大坂の役の戦没者供養の為に、上野の山に建立した。越後の外様大名が、江戸に上屋敷(上野)・下屋敷(駒込)を有し、徳川の老中にまでのし上がった。そして、直竒が死去すると、次男跡継ぎがいたにもかかわらず、願い叶わず、堀家お家断絶、村上藩は廃藩となり、初代村上藩は、たった24年間だけの『幻の藩』となって一度歴史から消された。これをもって、『大坂夏の陣 勝敗を決した秘密』が生涯隠ぺいされたのである。  第2章につづく・・・

 

  

 

越後、村上茶の起源

祖母が話していた、宇治茶の話である。

大坂城から逃れた、速水守久の三男保久、四男貞久、そして四男の母(守久側室)は、数名の家臣と供に、茶畑が一面に広がる、京都山城国の、とある農家に落ち延び、宇治村に隠生した。徳川の豊臣狩りから身を守るために、守久の旧知の庄屋にかくまわれたのである。普段、茶畑は、人の気配をかき消してしまえるほど、ひっそりとした場所なのである。

京都山城国は、太閤秀吉が死去する間際まで、速水守久が、豊臣検地奉行として出入りしていた土地、宇治茶の名産地である。守久の書状をもって、母子は城落ちしたのであろう。

さて、大坂の役三年後、速水守久の遺族母子を受け入れた、堀丹後守直竒なのだが、殆ど原野であった長岡の地を、長岡と名付け、1616年、長岡藩を立藩、築城と城下町の整備を行ったのである。新潟港の整備も行い、交易時の諸税を免除し、人口増加に伴う、新潟古町の整備をし、新潟町の基礎を作ってくれた。新潟の歴史で語り継がれるべき、とても重要な人物である。

1618年、長岡城も完成しないというのに、堀直竒は、将軍徳川秀忠より、向こう三年間、佐渡金山の採掘権を譲渡され、村上藩主に転封させられる。まさにこの年に、堀直竒は、京都へ使者を出し、隠生していた速水守久の遺児二人とその母を探し出して、村上城へ迎え入れているのである。

速水守久の遺児二人とその母は、速水家の数名の家臣を引き連れて、堀家家臣に守られて、京都から越後村上まで、大八車での長旅であったそうだ。古田織部の弟子でもあった守久大名家は、いつも大坂城の自邸でお茶を点てていたし、城落ちした後もお茶が身近にあり、生活の一部であった。越後へ下れば、お薄(お抹茶)がない生活が待っている、せめて『茶の種』を、定住の地で植えたいと、世話になった庄屋から譲り受け、このとき、宇治から隠密に持ち出すことができたのである。

1618年といえば、大坂夏の陣が終わったばかりで、まだ徳川政権が固まっていない時である。宇治茶、紅花、焼き物(陶器)及び、秘伝薬などの主要産物は、藩外持ち出し禁止令で縛れていた。『宇治茶の種及び苗木』は他藩へ出回ることはなかった品なのである。

村上城内で、守久母子によって密かに栽培された『宇治茶』は、幸運にも発芽し、冬越えができ、成長した。その後、堀直竒の村上地域産業促進事業の一つとして、城下の庄屋へ茶の苗が分け与えられ、『日本最北の宇治茶』として、『村上茶』が誕生したのである。

日本画家・速水御舟は、四男家の子孫

大坂夏の陣の三年後、速水守久の四男貞久(=速水理右衛門)は、三男保久(=速水藤右衛門)と供に、越後村上藩堀丹後守直竒に引き取られた。守久と同じく豊臣秀吉近習で、守久の同僚であった堀直竒は、守久の遺児2人と、四男の母(守久側室)を村上城に迎え、育て、元服させてくれた。堀丹後守直竒が亡くなる直前の病床で、「私が亡き後のことだが、豊臣を背負い、肩身の狭い思いをして、徳川の世を生きるのは辛かろう。領地を授けるから、帰農して、兄弟力を合わせて、新しい世を生きたらどうか」と勧められ、直竒の遺言通り帰農した。

 

明治17年、四男家を継承していた速水仙吉郎には世継が居らなかったため、当時、三男家の次男(速水柳平)が養子縁組をして、四男家の家督を相続した。その後、三男家の嫡男正久(柳平の兄)が引き起こした事情により、明治21年、速水柳平は、四男家をたたみ、兄の借財を返済した。柳平は、一度は三男家に戸籍を戻し、実家に戻ったのだが、このまま越後速水家を消滅させてはならないと、この年誕生したばかりの長女淑子を、三男家の当主に据え、妻の山川トキに離縁を言い渡し、自らは東京に働き口を求めて、速水家を守ってくれたのである。

明治24年に上京した速水柳平は、明治30年に易占の高島嘉右衛門に見初められ、高島嘉右衛門の側近として実業界で活躍した後、愛知セメントを辞し、京橋(八重洲駅前)で国産セメント販売業を会合した(大正4年)のだが、この頃、四男家末裔の蒔田栄一(=速水御舟)と家族交流しており、四男家の事情を、成人し理解ができるようになっていた蒔田栄一に話して聞かせた。速水仙吉郎の死蹟により自分が四男家家督を相続したこと、事情により四男家をたたんだこと、それに伴い四男家が絶えてしまったことを、伝え、詫びた。その意を汲んで、蒔田栄一は、絶えゆく母方の「速水姓」をことさら惜しみ、号を『速水御舟』と改めたのである。

四男家が、事情があり消滅したことを、上京した速水柳平が、四男家分家筋の速水キクに伝えたのであろう、明治42年、蒔田栄一は、15歳で祖母速水キクの養子となり、速水姓を継いだのである。

 

速水理右衛門(四男家)の5代目の分家に、速水利兵というものがあり、その孫が速水キク、その子が速水イト、さらにその子が蒔田栄一(=速水御舟)である。

ああ、そうか、あれは出来麿だ

わたしが中学生だった頃、大坂城京橋口三の丸から『秀頼の首』と言われる頭蓋骨が出土したと大きく話題になった。正確に言うとその遺骨は出土ではなく、丁寧に埋葬されていた。その頃まだ『速水家の歴史』を継承して.語ってくれた祖母が生きていた。祖母は草創期の二松學舎を経営から支えた速水柳平の孫である。速水柳平は時に二松學舎で助教を務め「日本外史」を教えていた。そんな速水柳平が語って聞かせていたことを、祖母は思い出しては、子である母や、孫の私に、ご先祖の歴史を語って聞かせてくれた。

そんな祖母が、『秀頼の首』が大坂城から発見されたとニュースで聞いたときは、『あれは、秀頼の首なんかではないわ・・』と言った。速水三男家の口伝では、『秀頼は死んでいない、守久が城落ちさせたから生きていたはずだ、宗久(守久次男)とその母も一緒に鹿児島の島津家を頼ったはずだ』と伝えられてきたから、そう言ったのだとばかり思っていた。

速水守久が、姪っ子の千姫を徳川陣屋へ送り届けるときに、大坂夏の陣の最中、元服したて14歳そこそこの速水盛久(幼名=出来麿・守久嫡男)が愛馬にまたがりおとり作戦で出陣し、直後、赤子の手をひねるかのように徳川軍に一撃され戦死した。

千姫を送り届け、徳川陣屋から大坂城に戻った速水守久は、すぐに、宗久(守久次男)と守久正室、秀頼には守久が最も信頼する武将をお供につけて、京橋口より城落ちさせた。そして薩摩の軍艦に乗せて、薩摩に送り出した。その後、混乱の中、戦死した嫡男盛久(出来麿)の遺体を京橋口三の丸に埋葬した。

  1. 二十歳前後の若い遺骨(頭蓋骨)の下に生貝を敷き詰めてあったという理由は、速水甲斐守の『甲斐=貝』速水甲斐守守久の息子、出来麿の遺骨であることを記したかったからだ。
  2. そして庶民では決して持てない副葬品『織部焼の角皿』が添えられていた。守久三男(正室の子)は、元服後、父守久の遺言によって、越後で自らを『織部正』と名乗っていた。これについては村上藩にあった官職の呼び名ではなかったようであるし、村上城主堀直竒から領地をもらって帰農した後に、村人たちには愛称で『おりべのしょうさま』とよばれていたと過去帳に残っている。いつの日か、平和な時が訪れたら、織部焼にメッセージを託して、子孫には大坂城の先祖の遺骨を探しだしてもらいたかったのだ。だから、守久は遺言で、越後の三男には愛称として『織部正・おりべのしょう』と名乗らせたのだ。
  3. それと、秀吉が朝鮮出兵の後、古田織部大坂城内で焼かせていたという『唐津焼』。これは埋葬された遺骨の時期と、古田織部に所縁の身分の高い人物の墓、と特定できるようにという思いが感じられる。守久が古田織部の庵で茶を嗜んでいたことは、古田織部の茶日記で確かめられる。
  4. そして、副葬として、干し草を敷いた上に置かれた『洋馬の遺骨』だが、身分の高いものにだけが乗ることができた。守久は、嫡男盛久の愛馬を埋葬することによって、頭蓋骨の身分がわかり、出来麿のものと特定できるよう、いつの日か、子孫に探し出してもらいたいという願いが込められた、速水守久からの精一杯のメッセージである。秀頼は薩摩に落ち延びて生きたのだから、秀頼の首ではありえないのである。じゃ、いったい誰の頭蓋骨なのか、守久の嫡男・出来麿の遺骨である。
  5. 守久は、混乱する戦場の最中、戦死した出来麿の首には生貝を敷き詰めて、その息子の愛馬には干し草を敷き詰めて埋葬した。黄泉でこれからも食事に困らないようにとする、せめてもの親心であったと偲ばれる。粗削りの花崗岩で石柱とし(長さ80センチ・15センチ角)平和になったいつの日か、子孫に探し出してもらう日を待っていたのだ。

守久の血を受け継ぐ子孫はここにいる。当然、速水盛久(出来麿)と同じDNAをもっているのだから、昭和の時代に『秀頼の首』と確証のないままに発表されたものを、どうかもう一度、科学的に鑑定してもらいたい。そうすれば、あの首は、間違いなく『出来麿の首』であることが証明されるはずである。子孫として先祖の御遺骨は供養してあげたいのである。

 

それから、おまけで書いておくが、初代村上藩が堀直竒亡き後、幻の村上藩となって御取壊しになった理由には、大坂夏の陣で伏せられた、徳川が暴かれたくない秘密がある。何故、水野隊の家臣として夏の陣に参戦していた堀直竒ばかりが徳川に優待遇され、家光の代まで力を持つことになったのか。大坂夏の陣で公表できない徳川の秘密をつかんだ者こそ、堀丹後守直竒なのである。それはまた別のお題で書こうと思う。

家紋は沢瀉

速水守久の家紋は、『沢瀉(おもだか)』である。速水家の祖先『音羽三郎源頼季の家紋』を代々継承したものである。

 

守久の家紋は、黒田長政が描かせた『大坂夏の陣図屏風の右隻(大阪城天守閣蔵)』で確認できる。守久の軍旗は『白地に沢瀉、二つ上下に黒染めしたもの』である。速水守久軍の鎧胴は黒漆に金の『丸に二つ引き』(=清和源氏細川家の家紋を継承=守久曽祖父は細川實政)が屏風絵図より確認できる。大坂夏の陣最終決戦天王寺の戦いでは赤備え真田信繁軍の殿を務めていた速水守久は、母衣をまとい栗毛の馬にまたがり、真田軍の最後尾に描かれている。

 

速水守久家家紋は、『沢瀉』 

■薩摩にのがれた守久次男の家紋は、『木瓜紋

大坂夏の陣の後、守久次男「速水五右衛門宗久」は、守久正室とともに鹿児島の島津家へ引き取られた。速水守久正室は、六角義頼(=六角定頼次男)末娘で、朝倉信景の養女になったのち速水守久の正室となっている。鹿児島に逃れた守久次男の末裔は、守久正室の朝倉家家紋『木瓜紋』を継承している。

 

■越後にのがれた守久三男四男の家紋は、『左卍』

大坂夏の陣の後、守久三男「速水藤右衛門保久」と四男「速水理右衛門貞久」は、守久側室とともに越後の村上藩堀丹後守直竒に引き取られた。速水守久側室は、讃岐守細川元勝娘である。越後に逃れた守久三男四男の末裔は、守久側室であり、四男の母である讃岐細川家家紋「左卍」を継承している。

真田幸村 大坂城へ入城

大坂の陣に向けて紀伊粉河で蟄居中の真田信繁を訪ね、豊臣に参戦するよう説得したのは、その時4万石の藩主(近江・和泉・河内)となっていた速水甲斐守守久である。

山から下りた真田信繁一行を、守久の寺堺福田の「願成寺」へ隠密のうちに囲い迎え、守久の曽祖父にあたる庄屋西村家(斎藤道三の実家=油の豪商)が真田一党の軍装を調えて差し上げたと伝えられている。真田一党は大坂冬の陣への出陣に向け「戦勝祈念」を兼ねて守久の願成寺に逗留し、西村の村民が接待した。守久親友の後藤又兵衛が招かれての三者密談が持たれた。

真田一党大阪城入城に際し、斎藤道三の一族(庄屋西村家)と西村の村民らが堺福田の願成寺にて炊き出しをして、真田一党の武運長久を祝し送り出したと西村家代々当主に伝えられてきた。

大坂堺福田願成寺 大坂夏の陣のあと

速水守久が近江湖北速水郷から1614年に移転建立した大坂堺福田の真言宗『願成寺』は、大坂夏の陣の後、豊臣縁寺の為、徳川の焼打ちに遭い、半焼・廃寺のまま300年近くも明治になるまで放置されていた。

清和源氏の末裔近江願成寺28代目速水守久が移転建立したこの堺福田の願成寺には、天皇家菊御紋が彫られていたため、天皇家縁の寺として庶民には敷居が高く誰も手を出せないお寺として300年近く放置された。

江戸末期に堺の県行政によって願成寺の敷地20,000平米(2.2丁)が、寺のある部分を残し1000平米(1反)に減地され、他は農地開発された。明治になり、廃寺となっていた菊の御紋の願成寺は、浄土真宗大谷派に買われ修復されて現在に至る。故に現在でも願成寺の柱には菊の御紋が許されている。

菩提寺は願成寺

速水守久菩提寺は、『願成寺』である。この『願成寺』は、1020年頃、清和天皇第六番目の王子貞純親王を父に持つ源経基王の末裔源頼季乙葉三郎入道)が、近江湖北速水郷に開基建立したものである。

1598年秀吉がこの世を去ると、世代交代により豊臣秀頼中老職となり豊臣秀頼金庫番を仰せつかった守久は、義従姉の淀を助け、国家安康を願い、広く寺社仏閣の修理修復及び寄進を行っていた。

1614年には、近江湖北の小谷城山裾にあった真言宗速水家菩提寺『願成寺』を、近江湖北速水郷から大坂堺福田(守久の寺・真言宗=父時久の宗派)と大坂和泉池田下(弟伝吉の寺・日蓮宗=斎藤家母蓮与の宗派)の2か所へ移転した。守久は、清和源氏の流れ足利・細川京兆家細川頼春の末裔であり願成寺28代目である。移転に伴い、寺の檀家衆は大坂堺と和泉へ総移住したという。

移築した『大坂堺福田願成寺』は、(速水兵右衛門)守久の為の寺で、堺油商人西村新左衛門の屋敷(斎藤道三の実家=守久の母方曽祖父の家)西村砦の一部に建立された。もともとこの場所は大和朝廷のお墓(山古墳)があった場所で、守久の先祖(和泉下守護深井城主細川政賢)が治めていた深井城があり、その後、守久が近江湖北速水郷の速水家菩提寺真言宗願成寺をここに移転した。大日如来像と速水家先祖を祀る寺である。

大奥の春日局は、はとこ

春日局は、速水守久のはとこ(母方の再従兄妹)である。

 

大坂夏の陣のあの日、守久は、義姪の千姫を徳川陣に届けた後、いとこ(義従弟)である徳川秀忠と、決死の交渉で守久が出した条件があった。

それは、秀頼と国松と淀の助命。これは大坂城に残る豊臣金塊と天下の譲渡を引きかえにしている。ブログ『守久の最後』で書いておいた。

それから、斉藤道三が所有し守久母蓮与が引き継いでいた和泉国速水家の菜種油・油権利を徳川へ差し出している。明治まで徳川一ツ橋家の管理下におかれることになったエネルギー利権である。そして、次の時代の平和を願い、すべての豊臣の責任をとり、守久は柳の木の下で自刃した。豊臣家の金蔵の前に植えてあったのであろう、守久の遺言『柳の木の下で、最後を迎える(省略)・・・』と伝承さている。

 

その後、熊本藩細川家家臣であった守久いこと(父方の従弟)速水忠兵衛が江戸詰となり、助命された守久母『蓮与』によって和泉国で継続され、その技術と手法は一ツ橋家へ引き継がれた。

 

その上、守久いとこ(従弟)速水忠兵衛の妻『惠院(守久義従妹)』と、その娘『千ゑ(守久父方はとこ』は、春日局の側近頭となり、破格の待遇をうけて、江戸大奥で仕えたのである。これが大阪夏の陣終焉の裏舞台である。

細川家の血をひく印、通字について

守久の遺児(三男と四男)は、大阪夏の陣の後、処刑されず、越後村上城主堀丹後守直竒に引き取られた。守久より7つ年少である堀直竒は、元は豊臣秀吉の近習(近侍)であった。豊臣時代には守久を近習頭とする仲間であった。徳川の御世となり、将軍秀忠、将軍家光の相談役として晩年を送った堀直竒。守久の遺児を村上城元服させてくれた。守久三男の家系は元服すると代々『〇久』と名乗っていた。例えば三男家は、守久から一字を受けて『保久-則久-安久-茂久-直久-満久-宣久-将久-正久-盛久・・・』と続いている。なのになぜか過去帳には代々『〇之』と記録されている。速水家代々通字で記された『之』は、細川家の通字であり、過去帳に『之』と記されているのは、ご先祖さまが細川家の血をひく印であると祖母は語っていた。

近習頭であり、黄母衣衆であるという意味

守久は、豊臣家の『近習頭(きんじゅがしら)』であり、『黄母衣衆(きほろしゅう)』であった。

『近習頭(きんじゅがしら)』とは、常に主君の身辺警護にあたり、主君の側近くにお仕えする役職である。速水守久はその筆頭。守久は9歳ではやばやと元服した時から、秀吉の『近習』であり、お市の近習をしていたことは、ブログ『お市様のお供役』に書いた通りである。守久解釈として、主君の身の回りの世話や刀持ちをする小姓ではなかったということを明記したい。

又、秀吉から『黄母衣(きほろ)』に人選されたということは、相手が大名であろうとも交渉を行えるだけの家格と能力、そして不覚の事態や妨害に遭ったときの武才と体力が備わっており、且、家臣や大名らに面識があり、よく知られていた人であるということを表しているのである。

太閤検地 守久検地奉行となる

守久の、豊臣秀吉近習としての、お市様お共役は、わずか3年少しで終わりとなった。1583年4月(天正11年癸未)まで、柴田勝家の城『越前国北ノ庄城』で、お市様お供(近習組頭)を勤めていたが、お市様がお亡くなりになり、役を離れた。1582年から豊臣秀吉が始めていた検地に携わる命が守久にも下り、1584年(天正12年甲申)より検地作業に就くことになった。守久14才のことである。この年守久は黄母衣衆に抜擢され小牧長久手の戦いに初陣。

翌1585年(天正13年・守久15才)四国征伐にも黄母衣衆として従軍。

1587年(天正15年・守久17才)は九州征伐にも黄母衣衆として従軍。

1588年(天正16年)足利義昭征夷大将軍職を辞任し、室町幕府終焉する。

この年(天正16年4月14日・守久18才)秀吉は、黄金の城『聚楽第』へ後陽成天皇行幸を迎え、守久はこの日、関白秀吉の随身として供奉している。聚楽第行幸記に記されている。

1589年(天正17年己丑)から、『山城国御検地帳 奉行速水甲斐守』の記述が見られる。守久19歳の時には検地奉行となっていた。淀が秀吉の側室となったばかりの頃である。

1590年(天正18年・守久20才)小田原征伐と奥羽征伐に出陣。

1592年(天正20年・守久22才)朝鮮出兵文禄の役)では名古屋城本丸広間番衆六番組頭として城守する。平時は、秀吉の身辺警護にあたっていたようである。

1594年(文禄三年・守久24才)西宮史第二巻によると速水甲斐守により名来・下山口・上山口・中野の各村の検地が行われたとある。1598年(慶長3年戊戌・守久28才)の越前検地まで、おおよそ14年にわたり、検地奉行を勤めたことが記録(福井県史)でわかる。

お市様のお共役

1570年(元亀元年庚午)、近江速水郷で、速水兵右衛門時久と蓮与の長男として『速水勝太(守久幼名)』誕生。妹は美帆。

1573年(天正元年癸酉)浅井家の小谷城落城により、守久父『速水時久』は、羽柴秀吉に仕えることになった。

1579年(天正7年己卯)織田信長安土城が完成する。この年9歳となっていた勝太は『守久』と名を改めることになった。伊勢上野城に身を寄せていたお市と浅井家三姉妹が、兄信長の招きで安土城に迎えられ、信長甥にあたる速水守久が、豊臣秀吉近習役として、お市様のお共役を命ぜられたからである。守久は、茶々、初、江と共に、安土城お市に教育され、成長していったのである。

守久の最後

守久は全ての責任をとって大坂城落城と共に殉死したのである。守久姪の千を徳川陣営へ送り届けた後、大阪夏の陣前より島津と謀っていた通り、守久が大阪の役の為に声掛けし参戦してくれた客将ら命と共に、主君秀頼を薩摩の船に乗せ脱出させたのである。大阪城の抜け道を知る者は、秀吉・秀頼2代に渡るSP(七手組頭筆頭・中老)をしていた守久を置いて他は居ないであろう。大野治長は淀の乳兄妹として豊臣の中心にいたようであるが、夏の陣に突入する緊迫した時期に、城内で不審者(実弟)に左わき腹から切り付けられ、ほとんど瀕死の様相だったという。戦議も家臣に戸板で運ばれ何とか席に着いたというから、当にはならなかった。守久は千姫を家康不在の徳川陣屋に送り届け、秀忠と密約の後、徳川陣営より大坂城に戻ると、守久の指示で、金蔵を開け、徳川方から真田幸村の叔父『真田信尹』が家臣に命じ豊臣金塊を運び出し、それを秀忠との約束通り、徳川家に譲渡したのである。戦乱の世を終わらせるために。民を苦しめないために。豊臣家の最後を見届けた守久は、千姫救出のおとり隊大将として戦死した嫡男盛久(出来麿)の遺体(首)と、戦場で散った父時久の遺体を、できる限りの供養でねんごろに埋葬した。墓が徳川の兵に暴かれないように、見つからないように、平安になった御代にいつの日か見つけだしてもらえるよう、子孫には「これは速水盛久と時久の遺骨である」と、後世名乗り出てもらえるよう、墓には時代と時間と身分を示す目印を残した。そして、守久は、「戦国時代の城明渡しの作法」に従い、徳川方重臣立会の下、豊臣の責任を一身に背負い自刃したのである。七手組頭として最後まで秀頼の命を守り切り、客将だった真田信繁に警護を頼み薩摩の船で逃れさせた。豊臣の主犯格として守久の首は徳川陣屋で首実検され、大坂夏の陣は終焉した。速水守久自刃と介錯に立ち会った人物は徳川方の『真田信尹』である。守久との約束で、真田信尹は守久介錯後、守久終焉の曲輪に火を放ち、遺体が誰のものかわからないよう協力してくれた。秀頼が徳川の御代に追われることが無いよう、世間的に死んだことにしてくれた、甥の真田信繁も薩摩に逃れたことを明らかにされないように。曲輪で首なしの丸こげの遺体が秀頼の具足と短刀とともに発見されたと徳川の歴史には書かれている。しかし、これは豊臣の最期を見届けた、忠臣・速水守久の遺体であろう。また、徳川方の真田信尹この人は、豊臣の客将であった真田信繁の叔父で、大阪東堺にある『玉圓寺』を開基した初代住職『馨蓮社光譽臺現祐德上人(俗名眞田八郎)』と思われる。大坂夏の陣が終わると、守久に戒名を授け、懇ろに葬ってくれたのである。速水守久の戒名は「純誠院殿釋忠真大居士」。戒名に、生涯忠臣であったという、守久の生前の生きざまが偲ばれる。浄土宗、もしくは浄土真宗の戒名である。今年、速水守久没後400年法要は、玉圓寺にて真田八郎霊位と共に、お寺さんと速水守久子孫及び関係者らによって執り行った。

淀はいとこ

淀は、速水守久の義従姉である。織田信長の妻『濃姫』が守久の伯母さんである故、淀の両親浅井長政お市夫婦は、守久のおじさんおばさん(義伯父母)である。浅井長政家臣であった守久父『時久』は、浅井家家族とは義兄弟。守久が幼少の時は、2つ3つ年上と言い伝えられている茶々姫とは姉弟のように育った。故に、守久は淀身内のような立場で秀吉の覚えが良く、聚楽第行幸(天正16年1588年)の際には秀吉の輿に随身し、秀吉の警護隊長(近習)務めたのである。守久18才であった。『越前検地奉行』の記録もある。五大老やら諸奉行との調整役に徹し、秀頼の御世には中老となり、大阪夏の陣では、千の救助の際に、いとこ秀忠との交渉に臨んだ。豊臣家最後を見届けた後、空にした金蔵ですべての責任ととって自刃したのである。戒名がそれを物語っている。守久は、秀頼と淀を介錯など決してしていないし、秀頼と淀は、大坂夏の陣の後も、『秀忠と守久の密約交渉』によって密やかに助命された。本物の国松も、秀忠と守久の密約交渉により島津家へのがれているのだから処刑などされていない。これが守久三男の家系で大正生まれの末裔まで、インターネットのない時代に内々に伝承されてきたことである。